映画・テレビ

2014年7月 5日 (土)

「風立ちぬ」は退屈

こんな映画作ってるようじゃ引退するのも仕方ない。はっきり言ってポニョ以下だ。ストーリーのダメさ加減はコクリコ坂と大差ない。ゲド戦記、コクリコ坂、風立ちぬがジブリのワーストスリーだと思う。

おそらく主人公の堀越二郎は宮崎本人の「こうありたかった自分」である。軽井沢に出かけたときの、メガネをかけてチューリップハットをかぶった姿は宮崎本人を髣髴とさせる。もちろん本人とは比べ物にならないほどカッコイイが、宮崎の「理想像」なのであれでいいんだろう。

主人公の声をエヴァンゲリオンの監督である庵野秀明がやっていて、それが下手糞すぎて映画に入り込めなかった、という批判がかなりあるが、そんなことはたいした問題ではない。むしろあの声はあの感情が平板な主人公によく合っている。

一番気に入らないのは「雰囲気だけはそれらしいが脈絡がおかしい」という点だ。夢と現実が入り混じるのはそういう手法として許すとしても、現実部分の筋の通らなさにイライラさせられる。

関東大震災の日の奈緒子との出会い。何で名前も告げずに立ち去ったのに、大学の教室にまで奈緒子が尋ねて来れて、堀越宛に計算尺というピッタリのプレゼントを言伝ることができるのか? 大学が本郷にあるということで東大生だとわかったとしても当時だって東大の学生は多いだろうし第一名前をどうやって知ったんだ? 仮に調べたんだとしたらあのプレゼントを贈った以降に連絡を絶った理由はなんなんだ?

関東大震災当日に学校の図書館の本を運び出しているときにタバコを吸うのも気に入らない。火から救うために運び出しているんじゃないのか? それに、大学の割と空間に余裕のある建物がそうそう火事で焼けるとも思えない。あれを外に出して積んでおくとむしろ火の粉をかぶって燃える可能性が高まるだけじゃないのか? おそらく大変なときに二郎が活躍したというエピソードが欲しくて入れたんだろうが、間違ったことをしているのを見るとイライラする。

どれだけ能力があるのかわからないのに仕事に恵まれてしまう二郎にもイラッとする。もちろん現実の堀越二郎という技術者の能力が高かったというのは事実なんだろうが、映画ではそこまでわかりやすく描かれていないのにとんとん拍子に出世してドイツに出張はするわ帰りに世界一周はさせてもらうわプロジェクトのリーダーは任せられるわ、宮崎にとっては堀越が自分自身なわけだから好きなだけ優遇するんだろうが、その身びいき振りが気に入らない。

試作機が失敗してフラッと軽井沢のリゾートホテルに休暇を過ごしに来られてしまう二郎の贅沢な暮らしぶり、そこで美しい奈緒子に偶然再会できて、自分は特に何もせず流れに任せてたらパラソルは風で飛ばされてくるわタイミングよく雨は降るわで最終的に向こうから言い寄られるという虫の良さ。 食堂で目配せしあったり、まともに会話するのはほぼ初めてなのに、しかも病気なのに、いきなり婚約したりと、二郎=宮崎ということからすると宮崎が自分でやりたかったことを全部いれてみたという、監督による映画の私物化を見せられているようで気分が悪い。まあこれも、プロデューサーの鈴木敏夫が宮崎の趣味で書いていた原作を無理やり映画化したそうだから仕方ないという面もあるが。

その後も主人公の二郎に都合のいいことばかり起こる。サナトリウムで病気療養中の婚約者が急に訪ねてきてその晩に結婚できてしまう、病気だからダメかと思ったら初夜にどうやらSEX出来てしまう、二郎が夜遅くまで仕事していても妻は文句を言わない、妻は死にそうになったら一人で黙って病院に帰っていく、二郎の試作機の試験飛行が上手く行った直後に風が吹いて妻が死んだことをなんとなく感じるだけという、後腐れなし、面倒なし、美しいというよりあっさりしすぎている。こういう二郎の人間味のなさに庵野の声は合っているのだが、二郎自体に魅力が感じられない。

結核なのにキスしまくることに関しても批判があってその通りだと思うが宮崎がそういう美女とキスしたかったんだろう。だからそういう描写を入れたんだろう。

もう一つの不満は多くの識者がこんな映画をかなり褒めていることである。宇多丸、伊集院光、町山智弘、細田守、等々。「宮崎は戦争が嫌いなのに戦闘機は好きだという矛盾を抱えていて、その葛藤がよく出ていて素晴らしい」みたいな批評がされているが映画を味わうのに監督の個人的な事情を知る必要があるのならそんな映画は名作とは言えない。

「わかる人にだけわかればいいと思ってやっている、そういう映画の作り方があってもいい、そのことがユーミンのひこうき雲の歌詞とも合ってる」などという好意的な批評も見たが、昔の宮崎は万人に分かって楽しめて感動も与えられる映画を作っていたんじゃなかったか? それにあの「ひこうき雲」の歌とこの映画は全然合っていないと思う。あれは、二郎が病弱で死んでしまった場合に歌われるべき歌で奈緒子のための歌ではない。

それと、思わせぶりだが何の意味もないことで客の気を引こうという根性も気に入らない。飛行機の効果音を人の口で出したからって何が良いんだ? そんなくだらないことを売りにするなよ。映画の内容と関係ないじゃないか。モネの「パラソルをさす女」を髣髴とさせるシーンも「それが分かってニヤリとする」というより「パクリやがって」と思ってしまう。音がモノラルだからなんだって言うんだ。

「創作者が本当に才能を発揮できるのは10年間だけだ」というセリフも宮崎が自分について語っている言葉なんだろうが、それがどうしたんだ?「その通りでやっぱり宮崎も才能枯れてるわな」と言えばいいのか?それとも「いや宮さんは大天才なのでそんな限界ありませんよ」と言えばいいのか? こういうとこも映画の私物化を感じる。

あと、とってつけたような軽井沢のスパイによる戦争批判。あんなセリフだけで戦争批判もいれたつもりになっているなら安易すぎる。カプローニなんかも本当は旅客機を作りたいみたいなことを言ってるし戦争に反対していたというユンカース博士を出したり軍人の上層部を馬鹿に描くことで反戦になっていると思ってるのかもしれないが、堀越二郎という才能ある技術者が特に葛藤もなく淡々と兵器を開発してしまうという点が恐ろしい。最後にチラッと「みんな死んだ」と淡々と言うのみでは反戦にはならない。多分宮崎駿も今は反戦のポーズを取っているがもし戦争が始まったら特に葛藤もなく戦意高揚のためのアニメを作ってしまいそうな気がする。

最後に、過去の栄光を汚しているのも気に入らない点だ。最初の夢のシーンで出てくる日本の田園風景はとなりのトトロの猫バスを髣髴させるし、最後の場面の多くの飛行機が天に昇っていくシーンは紅の豚の丸パクリだ。過去の自分のシーンで不満だった点を修正したつもりなのかもしれないが、脈絡なくあれを出されると劣化コピーのように見えてしまう。

やはり宮崎駿は年齢相応に衰えていて、整合性のあるストーリーを作る力がなくなってきてるんだろう。特に後半からは退屈で仕方なかった。この映画を自分で見て泣いたというところにも宮崎の衰えは出ていると思う。感覚がズレている。

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2013年2月 8日 (金)

「96時間」はすっきりしたが後味が悪い

悪いやつを殺しまくって、悪いやつもいろいろなタイプがあって、乱暴者からインテリ風、ブサイクからイケメンまでよりどりみどりで、そいつらをこれでもかってほど殺しまくってて、悪いやつらも実際悪いから殺されて当然なんだが、そいつらが殺されてスッキリした後「本当にこれでよかったのか?」という疑問が湧く。悪いやつらは本当にあそこまで悪を徹底するのかね、と。あいつらだって人間だからそこまでひどいことはやらないんじゃないの? だからあそこまで殺しまくるのはどうなのかね?と。 なんかこう、最近のアメリカの、テロリストは人間じゃないから問答無用で殺していい、みたいな風潮がこの映画にも出ているような気がする。昔なら、悪いやつでももう少し人間味があって、べらべら喋ったりして駆け引きみたいのがあったと思うのだが、この映画は、最後の殺しもそうだが、確かに相手は腹の立つ相手ではあるが、ほぼ問答無用で即、殺している。多分現実はこの映画に近いんだろうけど、つまり、喋ってないでさっさと殺したりするのが正しいんだろうけど、非人間的なやり方に思えて、後味は悪かった。

それと、他の被害者がどうなったかを一切見せてくれないのも心配になる。娘だけ救い出して後は知らん、じゃねーだろーな。

マシンガン撃ってる敵の弾は全然あたらなくて、ピストル撃ってる主人公はバンバン相手を殺すところは、桃太郎侍みたいなもんだな。

次回作もあるようだが、せっかくここまでして助けた娘がまたなんかのトラブル--たぶんよりひどいやつ--に巻き込まれるのかと思うと見る気になれない。悪いやつを殺しまくってスッキリしたのは確かなのだが、見ている自分がすさんだ気持ちになって、「殺せ殺せ」と思ってしまうのも、それにふと気づくとあまり気持ちのいいものではなかった。ダイハードなんかとはちょっと違う。ダイハードは悪いやつがみんなやっつけられて「よかったよかった」という気分になれたのだが。

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2013年2月 1日 (金)

「イエロー・ハンカチーフ」は劣化コピーそのもの

高倉健主演の「幸せの黄色いハンカチ」のリメイクだが、 アメリカでこんなイジイジした映画が受けるのか疑問が湧く。アメリカ人があのウェットな役をやるとパロディーにしかならない。

主人公の嫁が流産して、以前も流産したことがあると分って主人公がショックを受けて、荒れて人を殺してしまうというのは同じなのだが、アメリカの酸いも甘いもかみ分けたような中年女性にはそれなりの性体験があるのは分りきったことだろうに、そこで主人公がショックを受けるというのがリアリティーがない。貞操観念を重要視する日本だからこそあそこで高倉健が荒れるんじゃないのか?

武田鉄矢の役は空気の読めない放浪する少年になっていて、桃井かおりの役は親にかまってもらえない15歳の美少女。人生があまりうまくいってないという点ではオリジナルと一緒だが、なんかリアリティを感じられないのはアメリカだからってだけなんだろうか。オリジナルでは二人が恋仲になるのがふさわしいと思えたが、こっちではどうも二人はバランスが取れてないような気がした。15歳の少女が放浪する少年とどう付き合っていけばいいのかが見えない。

ストーリーがめんどくさかったからか知れないが、都合よく空家があってそこに泊まる場面が2回も出てきて「なんだそりゃ」と思うし、カニを食べ過ぎて腹を壊すところはなぜか少年が運転しながら一人でザリガニを次々食べてるシーンになってたりしてて不自然だった。

最後のハンカチを見つけるシーンも2回ほど空振りをさせてがっかりさせた後で見つけると言う姑息なやりかたをつかってるし、ハンカチも、伏線となる妊娠を知らせるときには黄色いヨットの帆をあげるというものだったので、じゃあクライマックスではもっと派手に港中のヨットの帆を黄色くするのか?と思いきや、オリジナルと同じで小さなハンカチをたくさん並べるというやりかたで、それじゃ伏線のときより地味じゃないか、と思ってしまった。

若者が他人の車を傷つけてしまって絡まれて、主人公が助太刀して逃げ出すときに主人公が運転して警察に捕まって無免許がばれる、というシーンまでコピーしていた。さらに、連れて行かれた警察署に知り合いの警官が居て、その警官が出前を取るとこまで一緒。ここまで一緒なのに、あくまで原作はピート・ハミルで山田洋次ではない。山田洋次は"Thanks to" のみ。 ピート・ハミルの小説にはこんな場面でてこないのに、である。こういう原作の認定の仕方にも違和感を感じた。そのくせカメオで桃井かおりは出すし。わけわからない。

「幸せの黄色いハンカチ」はやっぱり日本の風土じゃないと成立しない映画のような気がする。アメリカ人に日本のメンタリティーの人物を演じられるとこそばゆい。あんたらそんな性格じゃないだろ? もっとワイルドだろ?と思ってしまう。

あと、山田洋次は舐めてたが、こういう劣化コピーを見せられるとオリジナルはやはり素晴らしく、山田洋次はたいしたものなのだと再認識した。

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「南極料理人」良かった

男たちの描写がとてもリアル。身近に居そうだが魅力的な人々の生活を見せてもらった感じだった。生瀬勝久、きたろう、こういう人たちが会社とかに居たら楽しいだろうな、と思う。

ラーメン作るだけのことがあんなにクライマックスになるとは。

若い彼が日本に残した彼女とする電話もものすごいリアル。あんな感じだよな。男は彼女をつなぎ止めておきたいが、女のほうはちょっと及び腰のようなところが良く出ていた。

朝の食事時の連絡のときの力の抜けたような口調もリアルだし、ワガママなやつが居たり、挨拶にこだわる人が居たり、長く居てみんなの気持ちがすさんでいくところなんて非常にありがちでそれらしい。キムタクの南極大陸のような熱さなんて普通ないからな。

彼女に振られた若者がKDDIのインマルサットのオペレーターの声にほれるなんてのも女日照りの南極らしくて笑えた。

帰国の時の出迎えのシーンも良かった。西村の娘がジャンプしながら手を振ってる姿が、生意気なくせにお父さんが帰ってきてうれしいというツンデレでよかったし、なんと言ってもKDDIの清水さんが結構かわいかったのもよかった。 あの若い彼は高良健吾だったんだな。本来ならイケメンだがこの映画ではちゃんと女に振られそうな情けない男に見えた。

ドームふじ滞在中に西村の娘がどこかの科学館のイベントで西村に気づかれないまま交信する場面も良かった。娘はイタズラのつもりでいるが、実際には父親を気にかけてるという感じがよかった。

なんというか、普通だがちょっと魅力的な人々の生活を覗き見れた感じがした。日本のよさここにあり、という感じだった。日本のよさは、こういう穏やかでなるべく人々のあいだで争わないでいようとするところじゃないだろうか? アメリカじゃこんな映画は作れないと思う。なんか激しいことを起こさないと映画にはならんだろう。「ほのぼの」を映画にしたらこうなる、というような映画だった。

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2013年1月31日 (木)

「感染列島」は見てて恥ずかくて居ても立ってもいられない

こんなにひどい、見てて恥ずかしくなる映画をこれまで見たことがない。

それらしくかっこよく作ってるつもりなのだろうが、医療の素人である俺から見ても、「?」となる点が多いし、人を死なせて悲しくしてるつもりなのだろうがその安易さ、ご都合主義さが目立ち、こんな映画を感動大作としてもし自分が出したらと思うとこっぱずかしくて居ても立っても居られなくなった。

おそらく、監督以外のほかのスタッフたちや、出演したほとんどの役者たちも、試写かなんか見て「これはダメだ、ひどい」と感じたんじゃないか? 自分で脚本を書いた監督も、マズッたと思ったんじゃないのか? 

まず最初、佐藤浩市が死ぬところまでは普通だった。鳥インフルエンザが疑われて養鶏場を消毒する映像なんかはリアルで、期待感が高まった。

しかし壇れいが出てきてから「おや?」と思い始めて後は坂道を転げるように「?」の連続とこっぱずかしさの嵐で、この映画は伝説の「幻の湖」や「シベリア超特急」に匹敵するのではと思わされた。

壇れいは確かに美人だが、美人が科学者のリーダーの役をやるとどうしても説得力に欠ける。「こいつは顔でひいきされてリーダーになれたのであって、実力ではないんじゃないの?」と思ってしまう。フィリピンでの活躍シーンで心配する母親に向かって英語で「Don't worry」と言った後、もう一度「Don't worry.」と言うとこで「へ? もう一度言うだけか?」と思い、やっぱりこの人は実力ないな、という感じになった。

病院のスタッフ全員集めて白板に「それは何か、何をするのか、どこから来たのか、どうやって殺すか」と綺麗な字で書いたときもその内容にまったく具体性がなく、小学校の先生みたいに見えて優秀なリーダーは見えない。で、妻夫木とかが、区切り区切りで「その項目がクリアされた」ということでその白板の文字に線を引いていくんだが、いつまでその文字を消さずに残してるんだ、という突っ込みと、ほんとにそれでクリアされたことになったのか?という疑問が浮かぶ。

池脇千鶴の行動もひどい。最初、夫を死なせた妻夫木を責めるのはいいが、こういう大事になったのに傷ついたような顔をして黙ったり逃げたり。こいつの父親の、南国での医療活動がなにか美談のように描かれていたが、この親父の行動が日本で1千万人死んだ元凶になった。それを思うと池脇の行動はとんでもないと感じる。

妻夫木が見ず知らずの竹山を信じてウイルスの試料を渡すのもとんでもない話だし、その竹山がたった一人で顕微鏡のぞいてウイルスを発見してしまうのも「よくそういう設定に出来たな」と思って恥ずかしくなる。

隔離病棟に居るはずの妻夫木が当たり前のように外国に出て調査するおかしさ。何でただの救命医がウイルスの調査に行くんだ? 行かせてもらえるんだ? それも藤竜也を勝手に連れ出して。患者が多数出てて猫の手も借りたいと言う状況だろうに。WHOの指示無視で勝手に動いて、あんなことやってたらウイルスを拡散させる危険性が高いんじゃないか? 服はラフな格好でマスクとメガネを申し訳程度につけて危険地帯をずんずん行く。こんな行動するやつは閉じ込めておくしかないんじゃないか? 結局、外国で見つけたメモなんて何の役にも立たなかった。

爆笑問題の田中はあのまじめくさった演技が笑えてそこは良かったんだが、その嫁役の国仲涼子簡単に死なせすぎだろ。田中はお涙頂戴の役回りなんだろうが、それにしてもべた過ぎる。そのベタをやるために、他の人たちは結構粘ってなかなか死なないのに国仲だけあっさり死なせていて、このご都合主義も恥ずかしい。こんなんで泣くと思ってるのか?

で、光石研の娘が感染したときに、その彼氏は病院に入れてもらえてるでやんの。それどころか防護服着させてもらって、すぐそばで見守ってるという。だったら田中も入れてやれよ。でも何千万も患者がいるのに一人の患者を何人も医者や看護婦が取り囲んで、看病人に防護服まで着させて手厚く看護できるなんておかしい。

壇れいも感染したくせに長野に行くなよ。感染したら外に行ったらダメだろ。自分が感染止めるリーダーの癖にあの行動はない。

血清で直るみたいな結末だったけど、壇れいの実験の結果が出る前に光石研の娘にも適用して、血吐いて心臓止まるぐらい重症だったのに輸血したら娘直っちゃいやんの。血清の反応ってそんなに即効性あるのか疑問。

ああいう、患者が心肺停止するほど大変なときに、テレビ電話つなげるだけでもどうかと思ったんだが、他の患者ほっぽり出して長野にいる壇れいのとこに駆けつける妻夫木。ありえない。壇れいは最後死なせて回想シーン入れれば悲しくなると思ったのかもしれないが、血清が利いたかどうかは結局分らずじまいで壇れいが活躍したのかどうかも分らない。

テロップで「何千万人感染して何千万人死んだ」と書かれて、空撮で煙がちょっと上がってるぐらいの映像流されても「はあそうですか」とは全然思えない。解決もテロップで「ワクチンが開発されて収束に向かった」というだけで、映像でいろいろ見せられたが結局竹山がヒーローだったのかという話になる。

主人公である妻夫木と壇れいの行動はおかしいし、ほかの連中も感染を止めるために有効な行動をしたのは結局竹山だけで後の登場人物は光石研にしろ娘にしろ池脇千鶴にしろその父親にしろみんな感情に任せて無意味な行動をしているだけで、テロップでまとめて終わったことにしたという、映画の体をなしていない映画だった。良くある感動の場面をぶつ切りにして並べて「感動でござい」、と思ってるようなところが恥ずかしい。たとえば、壇れいが志願者を募って多くの医療スタッフが手を上げるところ。伏線がないので盛り上がりがない。また、機械を融通するために助からない人々を死なせる判断をした壇れいが雨の中で泣くところ。頼りないリーダーにしか見えない。TBSが金かけて豪華スターを起用して、これが出来てきたときの関係者の気持ちを察すると恐ろしいものがある。公開したくなかっただろうな。金かかってるから公開するしかないが。俺が監督だったら自殺してたかもしれない。もしかして監督の名前の「瀬々敬久」はアラン・スミシーみたいなもんか? と思ったら実在の人物だった。wikipedia を見ると、実験映画とかやってる人みたいでこんな大作映画にはまったく向かない人物のようだ。なんでこんな人を監督にしたのかね。

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2013年1月16日 (水)

「北の国から」の最初のシリーズを見るときつい

BSフジでやっている、北の国からの最初の連ドラの再放送を見ていると心が沈む。 純も蛍も、幼いながらも厳しい生活をけなげに送っているというのに、その後にああいう残念な未来が待っていると思うとがんばった甲斐がないと思う。 純は結局底辺のフリーターにしかなれなかった。自動車修理工場、ガソリンスタンド、そしてごみ収集。草太の農場を引き継いだときは浮上のチャンスだったが結局失敗。都会の小学4年生で勉強が出来た純は、順調に行けばスーツを着て通勤するような職に就けていたはずだ。北海道に来た後でも、中学3年の頃「ペンチ」と呼ばれていた機械好きの少年だったことを考えると、高卒でどこかのメーカーで技術者として働くという可能性もあったと思う。純の転落の最大のきっかけは、中学を出た後東京に出てきてしまったことで、あそこで富良野に残って普通の高校生活を送っていたら、普通に就職できて安定した生活が送れていたのではないか。あの時も、レイちゃんが夜逃げしたことで、東京に行く必要がなくなったのに、蛍に、「お父さんのがんばりを無駄にするな」ときつく言われて、東京に行く羽目になった。五郎は子供のためを思って行動しているとは言うものの、子供に気を使わせて結果的に子供の行動を縛ることになってしまっている。

蛍も、緒方直人演じる勇次と付き合ってたころまではいい感じで育っていたのに、その後の不倫以降は転落の繰り返し。正吉と結婚したのに農場がつぶれて一家離散とか。大きくなるときに五郎と一緒にいて、いつも五郎の気持ちを気にしながら育ったりしてると、そんなに素直には育たず、どこか影のある大人になるんだろうなという気はする。

雪子おばさんも幸せな結婚生活は送れなかったし、草太も亡くなったし、つららさんは風俗だし、中畑の奥さんは亡くなるし、五郎はいつまでたっても貧乏のままだし、そりゃ清貧はいいけどあんだけ頑張ったてきたんだからもっとうまくいったって良かったんじゃないかと思う。

もちろんドラマなんだから、平凡なサラリーマンになりました、普通の結婚をして普通に暮らしました、じゃダメなんだろうけど、昔の、幼い頃の純とか蛍のかわいさを見てると、どんだけ頑張って生きていてもこれから底辺の暮らしをする厳しい未来が待っているんだと思ってさびしい気持ちになる。今日の、「さようなら1980年」の回で、五郎の「この一年の君たちの頑張りを父さんは忘れないだろう」というセリフを聞いてなおさらそう思う。「その頑張りはそれほど大きな実は結ばないんだよ」と。

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2013年1月13日 (日)

「アバター」最高

映像はすごいがストーリーは糞だ、なんて意見をよく見るけどとんでもないと思う。映像、設定、ストーリー、すべてが最高だ。ストーリーは確かに単純だがその分わかりやすく、素直に入り込める。だからナビの女の子がかわいく見えてくるし、自分が人間であるにもかかわらず、ナビに肩入れして「人間やっつけろ」と思ってしまう。映像はもちろん言うことなし。空に浮かぶ岩山、黒い巨大なライオンや、象のような巨大獣の造形や動き。空に浮かぶ岩山に登る場面や、訓練で高いところから飛び降りる場面なんかはテレビで見ても自分がやってる気分になる。アバターの体に乗り移る設定もいいし、資源がほしい人間が、評判を気にして原住民をなるべく殺さないようにしたり、でも最終的には欲に駆られて殺しまくる、というのも本当にありそうだ。あの大佐が爆撃のときに気楽なふりしてコーヒー飲みながらやってるってのも、いかにもアメリカ人の余裕綽々を気取った態度って感じでそれらしい。地獄の黙示録のワルキューレの騎行を流す隊長を思い起こさせる。最後の、ナビの神秘の力で人間の乗り移りの技術を代用できてしまうなんてのもいい。そうそう、何も知らない主人公が最初にナビの人々に接触したときの異文化交流なんかも本当にそれらしくていい。最後の、大佐が接続カプセルを襲うシーンも確かにそれが正しいやり方で納得させられる。

わかりやすいし、きれいだし、気持ち悪くないし、はらはらするし、映画として完璧な作品だと思う。トータルで言えば、興行成績にふさわしい、史上最高の映画だ。

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2013年1月12日 (土)

「コクリコ坂から」はひどかった

ゲド戦記のときとは違って親父も協力していて、試写を見た後「映画になってた」と認めたそうだからそこそこいけるのかと思っていたら全然ダメだった。見ていて恥ずかしくなった。昭和38年には生まれておらず、その時代に何の思い入れもないであろう宮崎吾朗が、親父のノスタルジーを満たす映画作りを命じられて、当然親が宮崎駿だからってことで監督を任されて、親父の絵に似せた絵を描いて、でも見ている側はどうしても親父と比べてしまって、やっぱり親父と比べると下手で、なんだか親の鎖に雁字搦めにされているようで、見てて悲しくなった。偉大な親を持った子供はつらい。

映画が公開されたときにドキュメンタリーをやっていて、親父ともめながらも自分の意志を貫いて映画を作った、とか、親父の一枚の絵でヒントを得て主人公の女の子のキャラクターが固まったとか、なんかこう、いわくありげに報じられていたけど、映画を実際見ると全然そんなレベルじゃなかった。 親父である宮崎駿が描いて主人公のキャラが定まったと言う、線路の上の橋をすたすた歩く絵は全然重要じゃなかった。 はっきり言って、長澤まさみのけだるそうなしゃべりで、主人公の海ちゃんの「元気さ、けなげさ」みたいなものは全部消えていた。

ストーリーもわかりにくい部分が多い。なぜ食卓に母親がいなかったのか、それなのに母親の分の皿を並べるのはなぜなのか、家に何人もいる家族でもなさそうな女性たちは何者なのか。お手伝いさんがオート三輪に乗ってきたときにあれが母親なのかと勘違いした。主人公がこの家の主人の家族なのかさえわからなかった。使用人にも見えるし。宮崎吾朗は、自分が知ってることと、観客が知ってることの区別がついていないんじゃないか? 海ちゃんと風間の年齢の違いもよくわからなかった。風間がひとつ上だったんだな。

あとはこっぱずかしさの嵐だった。古めかしい若者の議論の口調はいかにも「それらしく似せてみました」というのが露骨にわかるし、カルチェラタンの建物は千と千尋の油屋のパクリだし、新聞に自分宛の詩を載せられるのは恥ずかしさの極みだし、あの地味な顔で「メル」と呼ばれるのは変だし、実は兄妹じゃないの?ってのは原作にもあるんだろうけど陳腐に過ぎるし、二人乗りの自転車は「耳を澄ませば」のパクリだし、とってつけたようなナイスタイミングで親父の友達の小野寺は来るし、何でもかんでも「海ちゃんのおかげ」だし、(主人公以外の)男はダメだが女たちがしっかりしているおかげで物事がうまくいくというのも親父のいつものやつだし、理事長が長澤まさみのけだるそうな声を聞いて心を動かされるのはちょっと変だし、作ってる最中に「これはダメだ、ニセモノだ」と思わなかったんだろうか?

ついでに書くと、海と風間が二人で歩いてるシーンは動きがぎこちないし、討論の最中に先生が来たときに急に合唱しだす場面は意味わからんし、あと、出版社で社長に会うために待ってるときの3人の無表情ぶりは何なんだと思った。

そもそも、親父が作りたい映画を、申しつけられて思い入れもない息子が監督やらされるってのが間違っていると思う。 監督は、自分が作りたい映画を作らなきゃ、、、と思ったが、同じように思い入れのないひとが監督させられたアリエッティはちゃんとしてたもんな。やっぱり宮崎吾朗の実力の問題といわざるを得ないか。挿入歌なんかは楽しくていいんだが、そこでいくらおしゃれっぽくしても却って中身のダメさが目立った。

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2012年7月11日 (水)

梅ちゃん先生見てると堀北真希が嫌いになる

そもそもドジっ子が医者やるってのが嫌な感じだった。医療ミスして「テヘっ」ではスマンだろうと。それでも医専に合格するとこまでは楽しく見ることが出来た。そこまでは普通の頑張る受験生の話として見れた。でも、医専に合格した後の順風満帆ぶり、脇役の扱いの適当さ、などにうんざりしてきた。医専という2流医科大学を卒業したのに、インターンで東大病院に行けるだけでもありえない感じなのに、正式にそこに就職できて、その上弥生さんまで一緒に行けているという変さ。医専をやっと卒業できたという設定なのに、そこで当たり前のように論文を書いてその論文の内容が認められてるというおかしさ。それに、朴訥だが優秀な彼氏が出来て、3年ぶりに偶然の再会する場が同じ東大病院の医局であるという変さ。それも父親が長をしている医局で。父親との会話で、松岡が自分の医局にはいったという話ぐらいするのが普通だと思うのだが。

取ってつけたような松子の失恋と、取ってつけたような竹雄の悲恋。取ってつけたような木村文乃とのラブコメの予感とやっつけの松子の結婚。父親の脳卒中さえ笑える話として扱ってるし、ギランバレー症候群にかかった女の子もちっともめげず、梅子のために協力しようと父親に詰め寄る。梅子に淡い思いを寄せていた信雄も、梅子の彼氏が松岡に確定した途端にそれほど可愛くない彼女が出来て満足していて、それでも彼の中では梅子のほうが大事な存在であるようである。梅子が昇進のオファーを蹴って独立するために医局を辞める時に、盛大な送別会を広げてもらえて、「困った時にはいつでも相談にきなさい」などと暖かい言葉をかけてもらえるのもありえない。

あらゆる人が梅子のために動いていて、すべてのいいことは梅子のおかげで起きていて、要らない脇役は取ってつけたようなエピソードを与えられて舞台から退去させられる。 そういう恵まれた状況に、梅子は「ありがとう~」と子供っぽい鼻にかかった声で感謝する。このえこひいきぶりを見てると堀北真希自身がえこひいきされてるように見えて嫌になる。昭和30年代という希望のある時代に素朴な女の子の役をする堀北は、三丁目の夕日での堀北を見て適役だと思ったし、期待していたのだが。

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2011年10月28日 (金)

君に届け

多部未華子と三浦春馬の出ていた映画。蓮佛なんとかって女優も出てた。

多部未華子がたまらん。あんな女の子いたら付き合いたいわ。蓮佛の友情も良かった。くるみちゃん役の悪役の子も、話を聞いて見たら理解できるとこもあるし、なんかさわやかというか、切ないというか、まさに高校生の頃にあこがれてたような生活って感じだった。

どうせくだらねーんだろ、と思っていい加減に見てたらほろりとさせられた。トイレで蓮佛との友情を確かめ合うとこで。いまさら自分が高校生の生活を見て涙するとは思わなかった。

それにしても多部未華子いいわ。映画の頭のへんの、貞子ばりの目つきで興味を引かれ、あの、いまどき無さそうな性格の女の子に興味を引かれ、かわいくないような、よく見るとかわいいような、微妙な顔にも惹かれる。あの顔のよさは俺だけが分かる、と思えてしまいそうなとこがいい。最後手をつないだりしないとこも良かった。

三浦春馬は「耳をすませば」の聖司くんみたいだった。

それと、映画って金じゃないな。特別なセットなんか一切つくらなくても、あそこまで気持ちのいい映画は作れるんだ。 歴史のある地方都市を舞台にした映画っていい。日本のどこかにあるそういう街で、ほんとにああいう映画のような生活が繰り広げられているような気になる。 この映画の舞台は足利だそうだが、森高の渡良瀬橋に近いんだな。

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